次期衆院選の比例北陸信越ブロックに公明党現職の中川宏昌氏(54)が出馬する。定数は1減の10となり、かつてない厳しい戦いとなる。銀行マン、県議、衆院議員――いつも中川氏は人のために走ってきた。
■生い立ち
1970年7月15日、長野県塩尻市で生まれた。2人きょうだいの長男。3歳の頃に大病を患ったが、両親の献身的な看病により元気な体を取り戻すことができた。
小学校低学年までは内気でおとなしかった。それを変えたのは、あるクラス担任。個性を認め、温かく励ましてくれたことで、明るく活発なムードメーカーへ成長していった。
小学校では児童会長、中学でも生徒会長を務めた。生徒会長になると、「あいさつが当たり前に飛び交う学校に」との思いから、毎朝、校門の前に立ち、率先してあいさつ運動に取り組んだ。
中学時代はバスケットボール部に所属。ひたむきに練習し、チームメートと絆を深めた。
■高校時代
地元の長野県塩尻高校(現・県塩尻志学館高校)に入学。心身ともに鍛え上げることを目的に、弓道部に入った。朝と放課後は弓道場へ通い、夢中で矢を放った。初めは思うように上達しなかったが、辛抱強く練習を重ね、2年時には国体選手に選ばれるまでに実力をつけた。3年時は部長として部を引っ張った。
弓などの費用を賄うため、3年間毎朝、自転車で一般紙の新聞配達を続けた。大雪の日には車輪が埋もれ、ペダルをこげなくなる。そんな時は自転車と新聞の束を担いで、懸命に一軒一軒回った。責任感と忍耐力が培われた。
高校でも生徒会長に。文化祭で「高校生のライフスタイル展」を企画し、マスコミ各社に取り上げられるなど反響を呼んだ。
■銀行マン
創価大学を卒業後、長野県を代表する企業の一つである長野銀行に就職した。「苦境にあえぐ顧客の力になりたい」。この一心で精いっぱい働いたが、思うように要望に応えられず、自身のふがいなさに打ちのめされた。
それでも足を止めずに顧客の元へ粘り強く通った。徹して耳を傾ける中で「相手が何を求めているか」「自分は何をすればよいか」が少しずつ分かるようになった。顧客から親しみを込めて「中ちゃん」と呼んでもらえるようになったことがうれしかった。
11年目には預金、融資両方で全店トップの成績を上げ、その後、支店営業課長に就いた。17年間の行員生活で約1000の中小・小規模事業者に携わり、行動力、対話力が養われた。
■長野県議
2011年4月、40歳で長野県議に初当選した。以来、3期10年余り、「すぐ行き、すぐ聞き、すぐ動く」を信条に、フットワーク軽く住民の元へ足を運び、悩みが解決するまで粘り強く寄り添い続けてきた。
党県本部青年局長を務めていた16年、若者の自殺問題に取り組み、アンケートを県青年局として独自に実施。その調査結果を踏まえ、知事に対し、SNSを活用したいじめ・自殺対策を提言した。県は17年9月、全国初となるLINEを活用した中高生のいじめ・自殺相談を始めた。これが反響を呼び、全国各地で導入が進んだ。
19年10月の「令和元年東日本台風」では、党県本部幹事長として県内各地で被災状況を調査し、復旧・復興に尽力した。
■衆院議員
2021年10月、衆院議員に初当選。党北陸信越方面本部長として新潟、富山、石川、長野、福井の5県を駆け巡り、少子高齢化や人口減少が進む地方の課題解決に奔走してきた。
当選後の3年間は大雨、地震など激甚・頻発化する災害との闘いだった。「現場でこそ、取り組むべきことの優先順位が分かる」。これを胸に刻み、災害発生後は現場に急行した。
元日の能登半島地震以降は、毎週のように被災地へ。その数は、33回に及ぶ。現場の悲痛な声を受け止め、1月24日の衆院予算委員会で、液状化被害への支援強化などを求めた。
被災地では、屋根などの応急修理でブルーシートを業者に張ってもらう世帯に最大5万円が補助され、多くの住民に喜ばれた。昨年5月に発生した能登の地震を受けて、同月の衆院災害対策特別委員会で要望。翌6月、国の支援制度が実現していた。
今後、北陸信越地域の豊富な観光資源を生かした地域活性化に全力を挙げる。
■能登地震と公明党/5分動画で分かる復興への歩み
動画投稿サイト「ユーチューブ」の中川氏のチャンネルで、能登半島地震後の公明党の奮闘をまとめた「現場第一で安心の社会を築く」(5分弱)が先ごろ公開された。
動画では、中川氏が発災翌日に石川県内の被災地へ急行した模様や、復旧加速へ公明党の国会・地方議員が連携して課題を拾い上げ、公費解体の対象拡大などにつながったことを紹介している。
同県かほく市の油野和一郎市長は、公明党議員が液状化被害に迅速に対応したことを「大変頼りになる」と高く評価。そのコメントも見られる。